表現して生きるpiyo

小鳥、ハムスター、メダカ、と暮らすシニア世代ですわん。

オラも強迫性障害だったという話

強迫性障害のこと

自分もそう、これは、つらいし苦しい、、

治るとかそういうものではないので 受け入れていくようにした。

自分がなんらかの障害を持ってるって気がつくまでは、、、地獄のような日々だった

 

その始まりは、自分は、左利き として生まれたこと

母親は、必死に右利きにしようとした。

 

結果から言いますと 左利きは、完全な右利きには、なりません。

 

お箸は、右

ハサミは、左

包丁は、主に右

傘は、左で持つ

ペンは、右

ものによって違うから 一つ一つ右で使うことを訓練するしかない。

時間は、かかる。長い時間がかかる。

その時間は、子供にとっては辛く親は恐ろしい存在だった。

 

母親は、ご飯の時になると鬼の形相で 左で箸を持ったとたんに激怒して左手をシバいてきた。母親は、怒って怒鳴って叩いて 教育する人だった。

恐ろしかった。2〜3歳の頃からそれは、続き 恐ろしすぎた。

しかもネグレスト状態で育った。

 

親たちの激しい夫婦喧嘩は、私が20歳すぎてもイベントのようにやってた。

ちゃぶ台が飛んで 皿が割れて、ご飯が飛んで、、あの人たちは、それがしたかった。

ときには、包丁だって出てきた。  漫画だよ、

今の時代ならパトカーが来るよね。けどその時代は、警察のお世話にならなかった。

周りの人が見て見ぬふりしてたからね 警察に電話しなかった。だれも、、、

田舎でね 大声出したらかなり遠くまで響くところなのに 

誰も見て見ぬふりだったよ。

 

このころ、ここに自分の場所はないと思い一人暮らしを始めたけれど

思えば子供の頃から自分は、現実世界から解離して生きてきたと思う。

感情もすべて封印してた。

 

声も出ない、、

思ったことも当然話せない。

ほとんど表情のない子どもだったと自分で思っている。

 

それでもなんとか社会人になった。

仕事のことは、最低限のことは話せたが本心で思ったことは、なにも話せないというか声がでない。

職場は、30年勤めた、。こんな状態の人をよく雇ってくれた会社に感謝です。

辞めた理由はうつ状態、休職、その後 退職した。

 

辞めてからは、だんだん元気を取り戻し

ある日 近くにヤマハ音楽教室ができ生徒募集をしていた。

興味を持って聞いたら

ボイストレーニングもある。これなら初期投資もほとんどない。

 

習うことにした。

先生は、まだ22歳の若い男性だった。

声が出ないので歌を歌うというより 声を出したいという話を聞いてくれた。

 

結局、その先生のところで5年間通った。声は、出るようになった。

思えば先生は、5年間 1度もダメ出しをしたことがなかった。

人が恐ろしいと思っている自分は、ダメ出しでも恐怖を感じて自分を責めてしまうところだったのに いい先生に出会ったと感謝している。

 

ただこのころは、自分に障害があるとは、夢にも思ってなかったから強迫性障害の症状が

自分を責める結果となり苦しんだ。ほんとに苦しかった。

 

七転八倒の苦しみ?のあと

強迫性障害だったと受け入れた時から随分と自分が楽になれたのは、つい最近のこと

やっと何かがみつかったような氣がした。

 

左利きを右利きにするというのは、脳の働きを変えようとしているということ

脳は、大混乱。

左利きを右利きに変えようとする親は、毒親だと断言できる。

 

親のことは、恨んだりあるいは、どこかで許そうとか そういう考えはない。

どうだっていい。それになにかの 学び とかも思ってない。

 

結果、こうなった、ということ。過去からの結果。

 

正直 なにも考えが浮かばないし あっそう って感じかな。

宇宙の果てまで どーだっていいーーーーーー。

 

毒親にかまってる時間があるんだったら 楽しいことする。

自分の強迫性障害とうまくつきあうことを考えつくす。

こんな障害をもってても楽しむ。

 

・出かける時や寝る前の戸締りのチェックは、以前より楽になったのは

今の部屋の鍵の仕様が関係してるかな。

 

おやつは、チョココルネ